フォートナイトの建築ってすごい、、、
- Gaku Sakura
- 2020年5月6日
- 読了時間: 5分
更新日:2020年5月7日
緊急事態宣言が延長になりました。皆さんはどうお過ごしでしょうか。
私はというと自分の生活を見直し、新たな生活環境に馴染むための方法を探る日々です。自分の仕事のこと、経済のこと、健康のこと、心配ごとは尽きません。しかし自分だけの心配ではありませんし、心配を共有してしまうと不安が大きくなりそうなのでこの不安は自分のなかにとどめておきたいと思います。
一か月。
ほとんど毎日動画を撮影しています。自分の生活を記録するわけですがどうこの日常に馴染むことができるか?という研究のようでもあります。家の中でできる制作。それはコロナ前と大して変わらないはずなのですが制作は大きく変化しているようです。いつでも外に出向くことが出来る日常とその外に新たな恐怖を感じているときでは外という意味も大きく違うのでしょう。
建築環境の変化に現在の建築が適応できるのかを考えなくてはいけません。新たな環境に適応するための術を獲得することの重要性を実感しています。
美術館のモノを持ち出す。
芸術には歴史があります。その歴史とは私たちの生活とは別の次元で築かれたもののようです。そのためその芸術の日常を私たちは知る事ができません。私たちの日常との距離感のようなものがあります。この距離感を私は建築と呼ばせてもらいたいのです。建築には用途に応じた形態というのが実は存在しません。すべては美術館のようにもお店のようにも空港のようにも見えてしまいます。その差を知るのはその建物のサイズ、付属品(演じる小道具)それから匂いや音です。つまり建築の形には何の重要性も持ち合わせていません。鳥居は改札へと、コロセウムはスタジアムへとその意味を現代的に再構築したとしても建築造形に大きな影響を与えることはありません。不思議なことに呼び名が変更されれば建築の意味が書き換えられるようでそこには歴史の建築が浮き彫りになるだけです。
美術館とギャラリーは似ています。その差を実感するのはサイズということになるのでしょうか。
住宅とギャラリーはどうでしょうか。簡単に言えば小道具の数ということになると思います。
食器、TV、ソファ、洗濯機にベッドにカーテン。日常の住宅に近づけば近づくほど小道具が多くなっていきます。逆説的に住宅のこれらの小道具を排除すればギャラリー、美術館の空間に近づくということでしょうか。私の感覚でいえば限りなく近づくことができる。が完全になりきることは出来ません。私は芸術とは日常から遠く離れた場所にあるものだと理解しなくてはいけないようです。特にこれは日本の場合です。
我が家のなかで絵を飾る場所を見つけようとする際必ず窓、ドアがそこにはあります。もしくはTVがあります、本棚があります。彫刻を置きたい場所にはソファやテーブルがあります。これは偶然でしょうか。
私たちの日本建築は空白を恐れているようです。そしてそれを埋めるように製品を陳列していきます。これは芸術という価値を日常から追い出す建築家の戦略なのでしょうか。日本の建築の多くはこれにあてはまります。絵を飾る場所には窓を開けるし、本を並べるし、TVを置きます。芸術は製品に置き換えられた日本の建築がここにはあります。美術館のモノを持ち出したところでそれを設置する余裕は日本建築にはないということです。いや芸術の豊かさをTVや漫画に置き換える運動こそ日本建築の現実だと言えるのかもしれません。
新たに付加される意味
私の生活、この日常に与えられる意味とはなんでしょうか。それを一言で表すとするならそれは非日常です。コロナウイルスの及ぼすこの日常は非日常なのか。ベッド、ソファ、生活にあふれる空間は日常を維持していると言えるのか。私たちの日常は非日常が訪れることで浮き彫りになる日常であると言えます。あるはずのものがなくなり、ないはずのものがあるようになるそんな日常のことです。
今熊本の家族にとっての非日常は私自身です。本来ここにいるはずのない私。ここでいう私とは非日常的な存在としての私です。
美術館の中にコロナウイルスが入ることはありません。地震の被害を受けることもありません。実際にはあるのですがそれを見せる展示は決してしません。それは絵画、彫刻、インスタレーションとして表現されるべきだからです。それは人間の手で作られたイミテーションでなくてはなりません。現実の現象をイミテーション化できなければ芸術はたちまちそのイリュージョンをさらけ出すことになるでしょう。それは芸術の価値を日常に近づけてしまいます。それを避けるための最後の砦が美術館という建築なのです。
日常の中から生まれるその非日常を美術館という建築は欲しがります。美術館以上の非日常を日常で体験できるとするならば美術館は閉館しておかなくてはなりません。それが今だということができるでしょう。そしてこの美術館という存在は限りなく日本建築とは遠い存在だと言えるでしょう。
動画について。それは広がる建築か。
動画はここではないどこかを建築します。
シンボリックな形態を使い、キャラクターを演じ、小道具を配置していきます。どこかで見たことのある風景があちらこちらで記録されていきます。それは見る側、演じる側の場所の意味を濁らせるようです。また演じる側は見る側の意味を把握することができません。それは一つの建築の在り方として理解できるものでありますが、その状況は決して気持ちのいいものではありません。がこれまでの建築の共有の方法とは異なる共有の方法がここにはあるようです。あらゆる場所から共有することのできる建築。それは見る側の場所の意味を大きくしながら新たな建築へと押し上げることができるでしょう。そして日本建築の特徴としてあったTVや漫画の中に存在する新たな建築の拡張なのかもしれません。
フォートナイトの建築の意味がすごく衝撃だったので動画添付いたします。
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