村野藤吾賞。そして私は野蛮人、と言われ。
- Gaku Sakura
- 2018年3月31日
- 読了時間: 4分
今年はないな、そう思った。太田市美術館・図書館。
今日二つ目の内容。書くつもりはなかったのだけど、少し書きたいと思ってまたパソコンの前に座っている。
太田市美術館・図書館が受賞ということは、今年2017年は建物不作の年だったんだなとそう思う。ここで受賞してしまうと、伊東さんと平田さんの建築政治的な雰囲気に包まれてしまうので何とも言いがたいのだが受賞した本人も困惑しているのではないかと思う。

どこから見ても美しくはない。楽しそうでもない。そして関係性という点から見てみてもまずこの車との関係性は建物をより駄目にしている。設備機器を隠そうとしているのか、デザインに取り込もうとしているのか?その中途半端な状況にも困惑してしまう。これを平田さんの代表作にしてしまうのはあまりにも酷である。
と、そんな印象を持ってます。
2年前の受賞作品が新居千秋さんです。


様々な点を比較してもデザインとしても建築としても差は歴然と言ったところでしょうか。
ある芸術家にあなたは野蛮人なのですね、と言われてしまいました。理由は簡単です。私の活動が規定のルールに属しないからです。一般的に学習する建築の内容からは異なるからです。私の建築は既存の建築とは大きく異なるように見えてしまうようです。なぜか。見た目の問題です。ただそれだけです。私の建築には既存の建物のような大きさはないです。それは構造的なフィジカル的大きさと言うことができると思います。そして、時に芸術を皮肉に扱うこともその方からしたら許せないことなのかもしれません。
私は時に偉人の言葉を借ります。それは有名建築家や有名芸術家の名言です。それはあらゆる説明をする時に納得してもらうショートカットキーとして機能します。全てを語る時間はありません。
私はある方の質問(芸術とは?というような質問)に対してこう答えました。デザインにも芸術にも、そして建築にもルールというものがあります。(それは更新可能なルールです)
そのルールを学ぶことは必要ですが、それに従う必要はありません。ルールは破るためにあるように思います。それが芸術です。と解答しました。
確かに野蛮人の解答に思えるかもしれません。少し荒っぽい言い方ですが、ダライラマは「ルールを破るためにルールを学びなさい」と言います。それが究極の芸術のルールでは?と言いたかったのです。
元イラストレーターはシルクスクリーンで絵画を完成させ芸術家になりました。ある画家はエプソンのプリンターを使って絵画を制作します。ある芸術家は美術館で焼きそばを振る舞い作品を完成させます。
多くの芸術家がヴィトンとのコラボを行ないます。芸術を工場で制作する芸術家も大勢います。どれも一般的に理解されているものとは多少異なると思います。そうやって芸術はルールを更新して発展していきます。私の好きな建築、芸術はいい裏切りがあるものです。
ルールの中で従う作品は縮こまって小さく見えてしまいます。そして考察するという奥行きを失わせてしまいます。それは非常に器用ではありますが、発展性にはかけます。私は野蛮人なのでしょうか。
建築野蛮人。
私は自称建築家です。建築野蛮人かもしれません。私は建物を建てるという行為を未だ行なっていない建築家です。なぜか?建物と建築は似ているように見えます。しかしそれは建物の歴史と建築の歴史の溝を多くの建築家が埋め固めていく作業を繰り返してきた結果です。
そしてこの埋め固めていく作業こそが建築であるということなのだと私は考えています。
建物と建築は異なるものです。
しかし、私はそれをまた掘り起こそうとしています。これまでの建築家とは異なる材料を使用しその溝を再度埋め固める方法を探っています。それが私の建築なのです。
私は建築家として美術館やギャラリーの中での活動を拒みます。
私は美術館やギャラリーで焼きそばは作りませんが、私は建築家として料理人を演じます。

私は建築家として演じるための建築を制作します。

そして建築家として物語を描きます。



そして建築はココにもあります。
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