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納まる建築。


最近は様々な変化が起こっている。


大切な友人は結婚。帰った熊本の街は復興に向かい新たな建物もキノコのように生え始めている。街には漫画のキャラクターの銅像とくまモンのオンパレード。明るい雰囲気はなにか作られた明るさで自然なものではない。カットバン建築とでも言えば良いのか、、、

ちなみにカットバンとは熊本の言葉で一般的には絆創膏のことである。

痛々しい街並みにコロナの影響で追い討ちをかけているように街はどこか寂しい。そして大雨に地震に噴火とニュースを騒がせている九州。この街の未来を不安に思いながら建築の可能性について探っている。


なぜか12月になって昔読んだ本をもう一度手に取ってみる。

それは家の本棚でもそうだし、書店に行ってもそうだ。昔の自分の記憶を呼び戻そうとしているかのように今本を読んでいる。

読むとその時の記憶を残そうとブログを書き始めた。


なんとも残念な自分の能力ではあるが文章を書くことも読むことも難しい。文章という建築と戯れる。

戯れる結果、誤読を繰り返す日々に私の建築学は大きく主線からは外れてしまった感がある。右も左もわからない建築という歴史に無理に文脈を与えようとして生まれた奇形の産物のように。

しかし私の誤読はなかなか未来を読む力があるらしく、スケートボードやダンスのプロ化、オリンピック化も予言していたようだしティックトックなどでみるダンスの動画もなんとなく昔の自分を見るようである。

当たり前の出来事ではあった。そもそもこれらの文化は成熟していた。ある程度の歴史の蓄積を行い、それから派生するかのように私たちの生活に馴染んできていた。ファッションに音楽に流行に。無視することができなくなったこれらのアングラがアングラでは無くなる日、次なるアングラがどこかで生まれている。


建築を見る日。それは体系化され、ヒエラルキーの上の方に押し上げられる文化の日。ストリートという舞台はスタジアムやアリーナという建物に置き換えられ、昇華を演じる日。そんな光景を見て少しながらソワソワしている。

原因はわかっている。昇華された先に納まるべき場所が与えられる。その場所には建物という建築があるがこの建築の正体がなかなか厄介なものだと感じているから。この建築の可能性は広げる場所ではないということ。それが一番の問題。常に納まるべき場所として提供される。そこには使用上のルールがあるし、監視されている。それはアングラなカルチャーの魅力を奪取する。消化する。昇華していると勘違いを起こしている間に消化する事実。

今の建築はなかなかに厄介だ。


料理はその分魅力的に思えていて、胃の中で消化され記憶は昇華され記録となる。まあ、記憶と記録のどちらが優れているかと論じたくはないわけで。。。一つの衝動が起こす流れとして読んでほしい。料理の長にも感謝をしなければならない。なかなか好き勝手にやらせてもらっている。仕事の時間も曜日も仕事の内容も。今のまま忙しく、そして楽しく料理がしたいとそう思う。仕事の時間を減らしてほしいなんてことは思わない。このままの状態が来年も続きますように。人に恵まれ、場に恵まれ、年末年始を迎えることができる。


料理はものづくりの基である。そしてこのものづくりは他には変えられない。体内に納まるものづくり。胃袋に入れるまでが料理ではない。その後続くその人の生活を作る。エネルギーを作る。そして体を形作る。食べすぎる人は太るし、食なさすぎる人は痩せる。いいものを食せば舌は肥える。ものを作りながら人を作る。とても魅力的な広がりのあるものづくり。


次いつ書くのかはわからない。気の向くままに書こうと思う。今日もものづくりに励む。1日1日ただただひたすらに。次はバイクについてでも書こうかな。

それではまた。








 
 
 

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