新建築論#3
- 岩川 幸揮
- 2024年9月18日
- 読了時間: 16分
更新日:2024年10月12日
建築詞
建築の作家性
本の可能性と考える場所について書いてきた。
その中で置き去りになってしまっていた建物の体験についてもここでは考えてみようと思う。
体験そこに求められるもの、それは作家性である。
作家性とはなにか。
それはイメージにもテキストにももちろんオブジェクトにも重要な要素であることがわかっている。作家性とは作者の手垢からなるべきものだ。
何を選択し、どのような言葉を発し、記録をするかという。そこには必ず作者の手垢が残る。
しかしコンセプチュアルアーティストたちはこの手垢をなるべくつけないように立ち振る舞うことが多い。そしてそれは建築家にも当てはまる。
実際建築家は建物を設計はするものの施工はしない。図面を描くこともあるが、それすら所員が描いている場合があるし、模型造りに関してはインターンシップの学生に任せたりもする。つまり建築家自身の手垢というのは建物にほとんどついていない場合がある。
そしてここで疑問になるのは建築家の作家性とはどこに現れるのかという問題だ。
コンセプチュアルアートのように手垢を残そうとはしないその建築家にとっての建築とは一体なんなのだろうか。私は思う。その建築家自身の手垢を発見する旅をすることこそが建築体験の価値であるのではないかと。
現代ARTの世界にティノセーガルというアーティストがいる。彼は少し変わった脚本家のようでもあり、また演出家のようでもある。彼は鑑賞者をパフォーマーとともに舞台に上げる。
彼の作品は台本であるが、その作品の内容は言葉だけで済まされる。そのため台本は物質的には存在しない。彼の作品となるものは彼の言葉だけである。
彼は台本や写真など、その記録全てを残そうとしない。その舞台はその都度その様相を変える。そしてそれはその場に参加したものではないとわからないという内容になっている。
作品を売買することすら言葉だけのやりとりになるので彼の作品のこだわりは非物質化することにあるのだろう。つまり台本というオブジェクトを言葉というオブジェクトに変換する現代のARTなのである。
それは作品を物質に依存しないことで鑑賞者を強制的に舞台に上げ、作品を体験として構築する試みと理解すればよいだろうか。そしてそれと同時に芸術にまつわる記録の方法や、価値基準を解体しようと試みるのである。ここでは彼の発する言葉だけが作品となり、演者と鑑賞者たちの記憶だけが記録となる。それらの連続的体験が彼の作品の輪郭を作り出しているのである。
今では動画を録画することも容易にできるため、鑑賞者が録画した動画が彼の作品の記録の一部となっていたりもする。それはYouYubeなどで見ることができる。
ここでいう鑑賞者は記録者へと置き換えられる。そこに体験するという理由が与えられている。
これを建物に置き換え理解しようとすれば、人々は途方に暮れることになる。
なぜなら建物の体験において重要であるはずの台本もなければ美術館やギャラリーという考える場もここには用意されてはいないからだ。それは建築家の言葉と建物が日常に馴染むが故に建物の知識と体験は新たな価値を生み出さないことを意味している。ここで建物が非物質化することはないし、建物から本来の機能を排除することはできない。そのような環境はいつだって演じることへの障害になる。人々は建築について考えることはなく建物を理解しようと努める。そんな体験はいつだって日常に還元されるのである。
つまりこれらの舞台の前提は建物の機能を剥ぎ取ることをまず行わなければならない。そして考える場所の構築のための美術館化を進めなければならないのである。それはデュシャンが行ったような便器の機能を破棄し、作品を美術館に持ち込む方法と同様の作業だ。
そうした基礎を作り出さなければここでの体験は日常をただ美しいというような過去の芸術の回想のようなもので終わることになる。
それは過去の建築の姿になるし、ここに現代の建築性は存在しない。
つまり建築を体験化させる作品にするためには作家としての言葉、台本が必要になり、その場を舞台に変える何らかの力が必要なのである。それは建物を考える場所へと用途変更する舞台だ。そんな場を仕立て上げるためのホワイトキューブのようなイリュージョンもまた必要になるのだろうと予測する。
これから注目する建築家たちの言葉は考える場の舞台としての台本だということになる。そして鑑賞者としてのカメラの目(記録)が体験に強度を与えることになるだろう。
体験することは建築にとって重要ではないと述べてきた。しかし、ここで与えられた可能性は体験することによって作品の輪郭をとらえるオブジェクトとしての建築の行方だ。私が語ってきた知識としての建築と体験としての建築。ここには大きな違いがあるのだろうと推測している。その体験を促すための建築化された言葉にとっての記録とは鑑賞者たちの記憶となり、大きな歴史の一部となるだろう。
そのような建築の可能性を探るため建築家たちの言葉という台本に注目していきたいと考える。しかし私が注目する建築家たちの言葉は直接私に伝えられたものではなく、本という物質化されたものの中に存在する、もはや記録された台本であるというのは先に理解しておくべきことだろう。
私がここで観察したいのは、建築家の言葉が建物という舞台の上でどのような効果を生み、それが作品化されるのか、ということである。そして鑑賞者の体験が何をカタチにするのか理解することによって建物を捉えてみたい。
建築のセリフと舞台
ここからは建築家の言葉に注目して、その言葉を台本とし、体験する建物を舞台にすることができるのか検証してみようと思う。
ライトは最後の著書、The Living Cityでこのように書いている。
“私に建てさせたのと同じ衝動がこれを書かせたのである”と。
設計することと同等の意味が言葉にはあるというライトの建築。
建築という近代から始まったARTはその言葉の重要性にすでに気がついていたのである。彼の言葉を台本に彼の建物を経験することで言葉と建物は新たな関係性を構築する。そして明らかになることは文字としての建築の可能性である。
言葉が持つ建築の意思はコンセプチュアルな衝動となって建築の歴史となる。
建てることの可能性を模索しながら見つけた新しい建築の姿がここに一部表出する。
ここで取り残された建物の存在を理解する。そしてここで体験する建物が建築の経験とは異なることを私たちは体験する。
また磯崎新は生前このように語った。
”俺の建築は100年後には1つも残らないだろう。でも紙は残る”と。
私たちはビルディングの終わり、アーキテクチャの始まりを知ったのかもしれない。
建物の限界を知っていた磯崎新の建築に対する残したいという思い。
建物と建築を切り離したくないはずの彼が下した決断は紙に建築を移植することであった。
ライトは建築と言葉を=で結んではいない。が、その関係は限りなく近い状態にあったと理解することができる。
そして磯崎新は建築とイメージ(紙)を=で結んではいないものの=で結ぶ以外、自身の建築が生きる方法がないことを知っていた。
ではそのような状態にある建物を理解しながら建築家の言葉に触れていこうと思う。
・サヴォア邸、コルビジェ
コルビジェは”住宅は住むための機械である”と語った。
そんなコルビジェのサヴォア邸を実際に体験する意味を私たちはここに見出すことができるだろうか。
この”住宅は住むための機械である”という言葉の意味を私は住宅は生活するための道具であると理解したとする。
その道具は機械のように無駄なく機能しなくてはいけないと、そのように考えてみる。
が、同時にそんな機械はいずれ必ず壊れる運命にあることをここでコルビジェは私たちに突きつける。
実際のところ現在の私たちはこのサヴォア邸という住宅を体験することが残念ながらできない。そもそも誰かが所有するはずの住宅を他人が経験しようとすること自体が不可能なのである。私たちが体験するサヴォア邸はすでに住宅としての機能が壊れてしまっている。
そこに誰かが住んでいる気配はない、だが廃墟と呼べるようなものではなく綺麗に管理されている。入るためには入場料が必要で時間も定められている。私は入るためにお金が必要な住宅を知らないし、門限の定められた住宅など聞いたことがない。
もうすでにサヴォア邸という住宅は壊れているのである。
住宅という建築があるとして、それは体験しないとその建築を本当の意味で理解したことにはならないと言う。
もうその言葉は否定されなければならない。
もし建築がARTという領域に存在するものであるとするなら、そして体験こそが大事だというのならそれは建築を一般開放しなければならないだろう。
建築は誰かが秘匿しておいていいものではない。建築は一般に公平に公開されるべきものでその価値は共有するためにある。
故に住宅という建築において体験はそれほど重要ではない。重要なのはそのような言葉の中でイメージが存在し、機能を剥奪されたサヴォア邸が今なお存在しているという事実の方である。つまりサヴォア邸はもうすでにサヴォア邸ではなくなってしまっているという事実を体験することにある。そして私たちは知ることになる。私たちがこの建物に訪れて体験していることは、この建物と彼の建築との差を歴史とともに実感するだけであると。
この関係は”1つと3つの椅子”に非常によく似ている。
つまり作品はここにあってここにない。この建築という状況を再考するためにここにある。
サヴォア邸は機能を剥奪され、言葉とイメージとの関係の中で住宅という機能を失ったオブジェクトとして今なお管理され残っている。
それは住宅のようであって住宅ではない。そして建築をコンセプチュアルなものに再構築しようとしているのである。そこで”1つと3つの椅子”の椅子に座るという体験、サヴォア邸を訪れるという体験は必要ないのである。
このサヴォア邸は彼の近代建築の五原則を再現した建物でもある。
1ピロティ、2屋上庭園、3自由な平面、4水平連続窓、5自由な立面
ここに生まれた建築の可能性の上に私たちの建物が建っていることは間違いない。
新たな可能性を言語化し再現性を獲得することでこの建物の重要性は高まった。その価値は彼の言語化能力によるものだと私は思う。
建築にとって重要なことは建物にはなく、今ここにある。
・ミースとベンチューリ
”Less is More”とLess is a Bore”
ミースは少ないことは豊だと語った。その後ベンチューリは少ないことは退屈だと語った。
実際に少ないことに豊さを見出すために3人の巨匠が家具をデザインしたことは前述したとおりである。
この二つの言葉が歴史に残る建築の未来は明るい。なぜならこれが建築の歴史の幅になるからである。
それはモダンからデコンまでの幅と似ている。それは構造の話でも造形の話でも装飾の話でもある。そしてそれは直接建築の可能性の話になる。
ミースはまた”神は細部に宿る”という言葉を使った。これは彼の言葉ではないにしても彼の言葉のように建築の世界では広まっている。そして後にこの言葉からはもう一つ別の言葉が作り出される。”悪魔は細部に宿る”と。
つまり神が宿る場には悪魔が宿るのである。ミースの発する言葉は興味深い。
彼の言葉からは時間の経過とともに別の言葉が生まれる。それは大きな歴史の物語になる。
彼は言葉を通して未来の建築が少しだけ見えていたのかもしれない。その未来を垣間見るためにファンズワース邸を訪れることにはきっと意味がある。しかし、彼の建築を学ぶ上で彼の建物を訪れる価値はそれくらいのことでしかない。ここで実際に現地で建物のディテールを見ることと今3D化した図面を基にモデリングし検証することの大きな違いはない。空気感や質感といった何々感は常に曖昧で個人の枠を飛び越えて人に伝わるものではない。それを楽しむための個人的な体験は常に個人のもので建築にはなり得ない。
彼の建築を学ぶためには彼の言葉を理解するよう努めなければならない。
・アドルフロース
彼は”装飾は罪悪である”と語った。非常に強烈な言葉である。
装飾の多さが文化的水準の低さを示すとまで彼は言った。
私は彼の言葉をより注目して見てしまう。
なぜかというとこの言葉についての彼にではない。
以前私はこの言葉の意味を調べたくてネットで調べたことがある。ウィキペディアの彼のページは非常にユニークだ。それは彼のポートレートにある。
装飾は犯罪であると語った彼の座る椅子が非常に装飾的なのだ。
彼はこの椅子に座って写真を撮る際、なにを思ったのだろうか。
こんな椅子には座りたくないと思ったのだろうか。それとも無意識的にこの椅子に座り写真を撮ったのだろうか。もちろん当時のアドルフロースがウィキペディアにこの写真を使われるとは思ってもみなかっただろう。そこにオブジェクトとしてのヒエラルキーが解体されていくような感覚を覚える。非常に興味深いポートレートである。
彼の文化的水準が高いのか、低いのかはわからない。そんなことはどうでもいい。
ただただそこには建築の歴史がある。そして彼らの生きた時代背景がそのポートレートとこの言葉に収められている。その事実が建築の魅力である。彼へのイメージが私の建築を構築していった。時に建築は矛盾を孕むと。
アドルフロースの言葉の中に彼の建物はない。ここにあるのはアドルフロースと私たちの時を超えた建築だけである。
・レム・コールハース
”Fuck Context!”
周りの状況なんて糞食らえとビックネス理論の定義のなかでコールハースは語った。
このビックネスは摩天楼を研究したコールハースならではの目線で建築の巨大化がもたらす建物の現状を捉える。
その中でビックネスにおいて建築の古典的レパートリーは無効になる。そして建築の「アート」は用なしだという。
ここでいう「アート」は古典的なアートということであり、きっと現代ARTを指してはいない。
なぜならこのビックネスという現象は実際、現代ARTの写真作品たちにも現れるからである。イギリスのアーティスト、グレイソンペリーが写真家として有名なマーティン・パーにこう質問をしたらしい。
“アート写真の定義をおしえてほしい”と。その時彼はこう答えた。高さ2メートル以上、価格が5桁以上であること、かなと。実際このサイズと価格で言うとアンドレアス・グルスキーの作品などはまさしくそれに該当する作品である。
つまり現代ARTにおいてもこのビックネスは有効なのである。アートは用なし、ではなくこのビックネスは絵画、彫刻、写真にインスタレーションすべてにおいて同じことが言える。ビックネスはコンテクストなんて糞食らえと建築だけでなく、他の表現でも叫ばれている。
実際、大きさは権威の象徴として機能する。建物のビックネスがそうであるように、写真もそうなのである。
私たちが家にARTを飾る際、その3メートル、4メートルほどある作品を展示するためには大きな大きな部屋が必要になる。
それはつまりその作品をコレクションをしているということ事体が権威の象徴として機能するのである。
アートと建築はビックネスという理論によって接続していることは間違い無い。
そして写真はこれからもっともっと大きくなるだろう。そしてその分価値も膨れ上がる可能性を秘めている。
しかし、日本の建物だけはその価値が膨れ上がることはない。100年後、ビックネスの建物は存在しているのだろうか。この理論は歯止めが効かない。そしてその痕跡として残るはずだった建物はいずれ取り壊される。今ここにあるビックネスとしての建物たちは、未来のビックネスに忘れ去られる運命にある。故にコンテクストを意識している余裕などここにはない。私たちは世界で1番大きいビルを答えることはできるが4番目に大きいビルを答えることはできない。ここで現前するのは欲望の塊のように膨れ上がった建物の姿であり、歴史化を目論んだ一時的な記録である。
つまりそれを体験する必要はほとんどない。しかし知ること、考えることには意味がある。
それをビックネス理論という。記憶と記録は肥大化していく。
建築家の言葉は実際建物を舞台にする台本として機能はする。
しかし彼らの言葉は彼らの設計した建物にだけ機能するのではなく、その他の建物にも当然機能する。むしろ日常自分たちが触れている建物との相性の方がいい可能性すら見えてきた。つまり建築のART性について考えることと彼らの建物が連動しているわけではないと言える。
その中でもっとも危険なことは彼らの建物を体験し、彼らの建築を理解したと勘違いしてしまうことだ。その過去に作られた建物という枠に収まってしまい、時の経過を忘れてしまうことで建築の発展は止まる。
つまり彼らの建物への体験を停止することによって彼らの建築は命を得るのである。それが建築のための建築となる。枠(建物)を体験してしまった私たちはきっとその枠(建物)のなかでしか生きられなくなる。建築はそれを望んではいないはずだ。私が彼らの建物を体験するのは建築人生最後の時でいい。
私たちは住宅は住むための機械であると建築が語れば、壊れることを想定して生活することになる。そして機能を基準にその機械の価値を測る。
震災などの災害、テロ、そのような破壊をも想定した上で住宅は存在していると理解する。
そして永遠の安心や安全が建物にはないことを理解しなければならない。
そこで担保されているのは日常の中での一時的な利便性だけである。
また公園や駅のトイレを利用し、その悪臭や落書きの多さにその地域の文化水準を図ることもある。電柱やビルの屋上に設置された広告も、そこに住む人々の刺青の多さもそれに該当するのだろう。もちろんこれはモダニズムという文化背景に機能するものであってポストモダニズム時代に機能するかはまた別の考察が必要である。
がモダニズムの時代において装飾は犯罪だったのである。
隈研吾が私の建築は負ける建築だと語れば何に負けるのかを想定する。
それはアメリカにだろうか、もしくはイギリスにだろうか。
他文化に、歴史に、環境に、価値に、機能に、装飾に、ファッションに。
建築は何に負けるのだろうか。
建築は実は勝ち負けの世界であるという事実がこの言葉で一部表面化する。
しかしこれが歴史の建築となるかはもう少し様子を見る必要があるだろう。未だそれを建築と呼ぶべきなのか私にはわからない。
しかしこのような状況にこそ現代建築の可能性があるし、価値があると私は思う。彼らの設計した建物に訪れること、それは実際のところ建築を理解することとはあまり関係がない。
体験は鑑賞者の記憶と記録をもって彼らの建築の輪郭を形作るものである。
それは建築の歴史にとって重要なことではあるものの、その建築を理解したことにはならない。
それは聖地巡礼のようなもので建築の歴史を辿るための記念碑的存在なのだ。
故に建築的建物を訪れることは美術館を訪れることと似ていると言える。
そして本はそれらの道標であり、建築座標である。
新たな建築は言葉からも誕生する。それは言葉であっても文字であっても変わらない。重要なのは記録という建築方法なのである。
考えるために体験することと、観ること、読むこと、語ること、ここにヒエラルキーは存在しない。もしあるとするのならば当然解体しなくてはいけない。それこそがビルディングの終わり、アーキテクチャーの始まりなのである。
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