建てない建築について。ソフトバンクと三菱重工
- 岩川 幸揮
- 2025年12月23日
- 読了時間: 5分
構造を買うということ
──ソフトバンクと三菱重工のチャートを建築の断面として読む
株式投資において「上がるか、下がるか」という問いは、実は二次的だ。本質的な問いは常にひとつしかない。
この構造の中に、人は“住める”のか。
私はチャートを価格の推移として見ていない。それは時間軸に沿って立ち上がる空間の断面図だ。そして投資とは、その空間に身体を預ける行為にほかならない。


ソフトバンクのチャート──階段と手すりのある建築
ソフトバンクの長期チャートは、明確な階層構造を持っている。それは約20年にわたって維持されてきた、極めて強固な空間だ。
青いレンジは壁であり、黄色い線は床レベル=基準線である。
この黄色い線は、単なるトレンドラインではない。人が立ち、歩き、体勢を立て直すための足場だ。
下の画像の↑矢印で示したポイントは、価格が黄色い線の下部で大きな下ヒゲをつけ、月足レベルで確定した瞬間である。一度は転びかけた身体が、床に足をつき直した地点だ。
この確定が起きたあとは、波の流れは必ず黄色い線に向かって戻っていく。上昇するか、横に進むかは問題ではない。床が意識され続ける限り、この空間は人を拒絶しない。
そしてもうひとつ重要なのは、この階段には手すりがあるということだ。
中央の黄色い線を基準に、上下の動きは誰の目にも可視化され、危険なアラートは極めて明確に共有される。
ソフトバンクのチャートは、「安心できる」から強いのではない。危険がどこにあるのか、誰にでも理解できる構造だから、結果として安全性が高い。

三菱重工のチャート──吹き抜けの塔を登るということ
一方で、三菱重工のチャートはまったく異なる空間を示している。
20年以上超えることのできなかった構造を突破し、価格は一気に打ち上がった。それは美しく、祝祭的ですらある。
だが、ここには致命的な欠落がある。
階層がない。
黄色い線で書いたジグザクのような床レベルが存在せず、途中で体勢を立て直す踊り場もない。
これは「吹き抜けの空間」ですらない。吹き抜けの塔を、足場なしで登っている感覚に近い。
上に行くほど景色は良くなる。だが足元は常に不安定で、一度バランスを崩せば、転落は止まらない。
支える階層が存在しないため、落ちるときは段階的に下がらない。一瞬で地面に到達する。
これは効率の問題ではない。居心地の問題だ。
巨大なワンフロアの吹き抜けが、空調の効かない建築であるように、このチャートは人の身体に対してあまりに冷たい。

危険の定義──赤い三本が意味するもの
ソフトバンクの構造が優れている理由は、危険が事前に可視化される点にある。再びソフトバンクの画像に戻ってほしい。
黄色い線の上部にいるとき、赤いローソク足が三本連続で確定する。これは単なる下落サインではない。
この時点で、中央の黄色い床レベルを割り込む未来が見え始める。
それは予測ではなく、構造崩壊のプロセスが始まったサインだ。
つまりこの読み方は、「どこで買うか」「どこで売るか」を教えるものではない。
どこで足場を失うかを教える。
ホンダとヤマハとの決定的な違い
ホンダとヤマハの比較では、両者は非常に似た構造を持っていた。階層も、床も、反発のリズムも近い。
だから選択は「強度の差」だった。
だが、ソフトバンクと三菱重工は違う。ここでは強度の比較ではない。
空間の形式そのものが異なる。
階段のある建築か、足場のない塔か。
この二つを同じ物差しで測ること自体が、すでに誤りだ。
結論──私は構造に住む
私は花火のような上昇を否定しない。だが、その空間に住めない建築には入らない。
人は、床があり、階層があり、転びそうになったときに掴める何かがある場所でしか、長く立っていられない。
だから私は、価格ではなく、話題でもなく、構造を買う。
この読み方は万人向けではない。だが一度身につけば、チャートは数字の羅列ではなく、身体感覚としての建築になる。
それで十分だと思っている。
建てない建築について
こうしてチャートを読み続けていると、私は自分自身の建築を構築している感覚になる。
それは会社の自社ビルを設計することとはまったく違う。土地もなければ、施主もいない。物理的な構造体も存在しない。
それでも私は、間違いなくこの会社の「建築」をしている。
価格の動きに階層を与え、基準線を床として定義し、人が立ち、転び、持ち直す場所を可視化する。それは数値を読む行為ではなく、空間を設計する行為だ。
私は「建築を移植する」という言葉が好きではない。それは既存の建築を別の場所に運ぶだけだからだ。ここで起きているのは移植ではない。
新しい建築が、ここで立ち上がっている。
それは株価という流動的で固定されない物質の上に、一時的な床を与え、構造としての秩序を仮設する行為だ。完成もなければ、永続性もない。だが、その瞬間ごとに人が住める。
建築とは、本来そういうものだったはずだ。
私は建てない。だが、建築している。
そしてこの方法でしか、今の世界において建築を更新することはできないと、私は確信している。


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